詩の裏にある物語


本文は白楽天自身の角度に立って、読者に白楽天の若い頃から老年にかけて有名な詩を鑑賞し、一人称で白楽天の詩の背後にある物語を描き、白楽天が詩を作った当時の心理状態を垣間見て、コメントを歓迎した。




私は 白楽天です、西暦772年に河南省新鄭市に生まれましたが、私の家庭は中小の官僚の家庭でした。私の家族は読書人の家柄でした, しかも代々官職に就いていました。私の祖父と父は詩を書くことができました、二人とも役人をしていました。私が2歳の時、戦乱が起こりました。数ヵ月后、祖父が病気で亡くなりました。その後、戦乱を避けるため、家族は安徽省宿州市に移り住みました。私が小さい頃、父は仕事で忙して、一緒に過ごす時間があまりありませんでした。私の生活と勉強は主に母と祖母によって管理されていました。母はとても厳しく、自ら詩や習字を教えてくれました。私は頭が良くて、3歳で字が読めました、5歳で詩が読めました、9歳で詩が書けました。わたしは才能だけで勉強しているのではありませんでした。私が勉強のは非常に苦労して、口のなかに傷ができました、手に繭まゆができました、若くて白髪まじりの髪をしていました。私が小さい時から科挙の試験を受けて, 功名を得ようと志した。私が16歳の時、科挙の試験を準備するため、普段の練習として、賦得古草原別れという詩を作りました、この詩は私の出世作になりました。

私は、当時まだ若い詩人として、心は青春の情熱に満ち、同時に、人生の無常と離別の哀愁にも敏感でした。

ある日、長安の城壁に立ち、古原の野草を眺め、心に詩の念を起こしました。この詩「古草原送别」は、友との別れを描くものでありましたが、同時に生命の無常と逞しさをも詠んだものでありました。

当日、我は一人城壁に歩み、足下に広がる野草の群れを眺めました。春風が吹くと、草色は青々と輝き、大自然の質朴と逞しさを示すかのようでありました。我はこの延々と続く緑意を見て、心に言いようのない感動を覚えた。この野草は、年々枯栄を重ね、野火に焼かれても、春風に吹かれれば再生を遂げていました。これは生命の不屈の精神を最もよく表しているではないませんか。そこで、我はこの古原の野草を題材とし、心の情感を発散すべく決めました。

詩を構思する際、我は友との共に過ごした日々を回想しました。あの笑いと涙と交じり合う日々は、この野草の如く、風雨を経てもなお逞しく生き続けました。我はこの深い友情と生命の畏敬を、一字一句に溶け込ませようと決めました。

「離離原上草、一歳一枯栄。」我は簡潔明快の筆致を以て、野草の生長の規律を描き出し、同時に人生の起伏をも暗喩しました。続く「野火焼不尽、春風吹又生。」この十字は、野草の生命力を讃えるのみならず、我が心の奥底に潜む不屈の精神をも真実に表しました。我は信ずます、どんな挫折と苦難に遭遇しても、心に夢と愛があるならば、この野草の如く、再び生機を発露することができるのでありました。

思考が深まるにつれ、我は遠方に目を向けました。あの芳草に覆われた古道と荒城は、春日の陽光に照らされ、格別に静かで穏やかな風景を呈していました。「遠芳侵古道、晴翠接荒城。」我は細やかな筆致を以て、生動な画面を描き出し、読者をこの生機に満ちた原野の上に立たせしめた。そしてこれらは全て、最後の別れの情を引出すためでありました。「又送王孫去、萋萋滿別情。」ここに「王孫」は我の友を指すのみならず、人生の路上で絶えず前行し、絶えず別れを告げる旅人をも象徴しました。そしてあの萋萋と茂る芳草は、我々の心の離愁別緒の如く、綿綿と絶えることがありませんでした。

この詩を創作する際、我の心は複雑な情感に満たされていました。一方では、友との別れを惜しむ気持ちがあったが、他方では、この詩を以て生命の感悟と友情の珍重を表現することができたことを嬉しく思いました。我はこの古原の野草と対話をし、彼らの無声の教えを聞き、逞しい生命力を感じとった。同時に、我は自らとも対話をし、過去の経験を反省し、未来の道を展望しました。

最終、この詩が我の筆下から緩やかに流れ出る時、我は知りました。これはもう我個人の情感の発散のみならず、生命と友情と自然に対する深い敬意の一種の表現でありました。我は信ずる、岁月が如何に変遷しても、この詩はこの古原の野草の如く、生生不息に永遠に伝唱され続けるであろう。




11歳のとき、私は符離(現在の安徽省宿州市)で一生の最愛の人——湘霊に出会りました。私たちは幼なじみで、青梅竹马だったが、母親の反対にあって、結局一緒になれなかった。しかし、彼女と過ごした日々を思い出すと、とても美しい思い出である。

ある春の午後だった、符離の小さな路地に、柔らかな陽光が注ぎ、全てに薄い金色の輝きを与えた。私は、この慣れた生活の香りに満ちた小道をぶらぶらと歩き、心は生活への愛と未来への憧れに満ちていた。

そして、いつもの角を曲がろうとしたその時、清新な姿が突然、私の目に映った。それは彼女だった、湘霊、私の隣の家の少女。彼女は自分の家の前に立ち、手に摘んだばかりの野花の束を軽く弄び、陽光は彼女の髪の毛を透かし、まるで彼女に薄い光のヴェールをかぶせたようだった。

その瞬間、時間が止まったかのように感じた。私はただ彼女を見つめ、心の中で前例のない感情が湧き上がってきた。彼女の笑顔は、とても純真無邪気で、まるで春の日に最も暖かい陽光のように、瞬時に私の全ての世界を照らした。彼女の瞳は、清らかで水のように、人の心の最も深いところを見透かすことができるかのように、私は不由得彼女に近づきたくなった。

私はゆっくりと近づき、一歩一歩はまるで雲の上を踏んでいるかのように、軽やかでまたはぼんやりとした。私の心は鼓動を速め、喉は少し乾いたが、どのように口を開けばいいのか分からなかった。彼女はただ少し側頭を傾け、私の目を見つけた。そして、口元にさらに明るい笑みを浮かべた。その瞬間、私はもう、深く彼女に引きつけられていたのを知った。

「楽天お兄さん、来たんだね!」彼女の声は清らかで耳に心地よく、まるで山間の溪のように、私の心の隅々を洗い流していた。私は少し戸惑って、すぐに気を取り直し、微笑んで答えた:「うん、湘霊、今日本当に美しいね。」

それ以後、私の生活は湘霊の出現で変わった。私たちは一緒に符離の路地で遊び、一緒に夕陽の下で詩詞を吟じ、一緒にお互いの夢と秘密を分かち合った。彼女は、私の生命の中で欠くことのできない一部になり、そして、私はゆっくりと気付いた。あの初めて会った時の心の動揺は、もう静かにより深い感情に変わっていたのだ。

いつもあの春の日の午後を思い出すと、私ははっきりとあの初めて会った時の震撼と美しさを感じることができる。湘霊、彼女は私の生命の中の一道の風景だけでなく、私の心の中の永遠の詩篇でもある。

19歳のとき、私は「隣女」という詩を書いて、彼女の美しさと私は彼女に対する愛慕の情を表現した。

「娉婷十五勝天仙,白日嫦娥旱地蓮。」
この一句で、私は彼女の美しさを詠んだ。娉婷たる姿は十五の春に天仙をも凌駕し、白日の中の嫦娥のように、旱地に咲く蓮の花のようであった。彼女の明るい笑顔と清らかな瞳を思い出し、私の心は再びあの春日の午後の感動に満たされる。

「何處閑教鸚鵡語,誰家慣養鳳凰兒。」
彼女は閑さに鸚鵡の言葉を教え、また誰かの家で鳳凰の子として慣らされていたのだろうか。この一句で、私は彼女の聡明さと高貴さを詠んだ。彼女との日々を思い起こし、彼女の優しい声と聡明な会話が私の耳に蘇る。

「綺羅叢里人愁遠,際海天邊意未窮。」
綺羅の叢の中で人は遠くを愁い、際限のない海天の边でその意は尽きることがない。この一句で、私は彼女との別れの哀愁を詠んだ。彼女との日々は楽しくもあったが、別れの時が来ると、私の心は深い悲しみに満たされた。

「慣入蘭房応得見,慣聴竹院未聞風。」
私は慣れて彼女の蘭の香る房に入り、彼女の姿を見ることができたが、慣れて彼女の竹の院の音を聴くにも、まだ彼女の心の風を聞くことはできなかった。この一句で、私は彼女への憧れと未だ知らない彼女の内面を詠んだ。彼女との日々は楽しくもあったが、同時に彼女の心の深さを知ることができず、私は少しの寂しさを感じていた。

この詩を創作する時、私は全ての心を込めた。彼女との日々を思い起こし、心の中で彼女を詠み始めた。彼女の明るい笑顔、清らかな瞳、そして優しい声,全てが私の詩の中に溶け込み、永遠に消えることはない。この詩は、私の青春の記憶であり、私の心の歌でもあった。

「隣女」を創作する時、私はまた、彼女への深い感情を込めた。彼女との出会いは、私の生活を変え、私の心の中で永遠に消えることはないだろう。この詩は、彼女への賛歌であり、彼女との日々への感謝でもあった。私は希望する、この詩が風に乗り、遠くへと伝わり、そして、多くの人々の心の中で、青春の美しさと深い感情を呼び起こすことができるだろう。

今、私は再びこの詩を読み返し、かつてのあの春日の午後を思い出す。陽光が注ぎ込む小道、目の前に現れた彼女の姿、そして心の中で湧き上がってきた前例のない感情。全てがまるで昨日のことのように鮮明に浮かび上がってくる。この詩は、私の青春の証であり、私の心の永遠の歌でもある。




私は27歳で、ようやく符離を離れ、長安に出発して功名を取りに行くことができた。数年前、私は母に湘霊を妻に迎えたいと申し出たが、母は家柄が違うとして断固として拒否した。私は母が湘霊の存在が私の学業に影響を及ぼすのを心配しているのだと思い、さらに熱心に勉強し、功名を取って母の心配は無用のものであることを証明しようと思った。私の計画では、功名を取った後、私は十分な資本を持って母に再び湘霊との結婚を申し出すことができるだろうし、その時母は承諾するだろうと思った。そして、27歳の時に、私は京都に試験を受ける機会を得て、複雑な気持ちで出発した。一方では長年の願望が実現できる機会が来たのを喜び、他方では恋人の湘霊を離れたくないと思った。旅路は長く、恋人への思いが自然と湧いてきたので、道中で「寄湘霊」という詩を書いて、寂しい心を慰めし、同時に湘霊への惜別の情を表現した。

「涙眼凌寒凍不流,每経高処即回頭。」

この二句を読むと、寒さに包まれた旅路を歩む私の姿が浮かぶ。涙を流すこともできずにいる私は、寒さに凍りつく涙を感じながら、高い所を経るたびに振り返ってしまう。それは、私の心の中でいつも湘霊の姿があったからだ。彼女との別れを思い出し、心を痛めながらも、彼女の姿を追いかけるように振り返るのである。

当時、私は深い哀愁に包まれていた。湘霊との別れは、私の心に大きな傷を残していた。しかし、旅路を歩む中で、私は彼女への思いを詩に込めようと決めた。この二句は、私の心の奥に秘めた哀愁と、彼女への切ない思いを表しているのである。

「遙知別後西樓上,応憑欄干独自愁。」

この二句は、私は遥かに彼女のことを思い浮かべている。彼女も同じように、この別れを惜しんでいると信じている。彼女は、今も西楼に独り凭らんで、愁いを抱いているのだろう。私は、彼女のその姿を想像し、心を痛める。 この二句を書いた時、私は彼女への無限の愛と恋慕を感じていた。私は、彼女との別れを切実に思い出し、心を痛めていた。しかし、同時に、私は彼女が今も同じように愁いを抱いていると信じていた。この二句は、私の心の奥に秘めた恋慕と、彼女への深い思いを表しているのである。




二年后、私は29歳になり、試験が終わり、ドキドキの気持ちで発表の日を待っていた。試験結果の発表の日を迎え、私は慈恩塔の下で公告を見に行き、自分の名前がはっきりとそこに書いてあるのを見つけた。しかも、私は合格者17人中で最も若かった。私はついに功名を得たのだ、29歳という若さで進士に合格できた!一つの自豪感が油然と生まれ、私は「慈恩塔下題名處、十七人中最少年」という高調な诗句を書いた。

未完